おもしろコラム1月号2024
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ローマに話を戻しますと、ローマ帝国末期、帝国は四人の皇帝が分割統治する時代を迎えますが、ここで、さらに四人のうちに入れなかった先代皇帝の息子が一人、本来の本国であるイタリア半島で勝手に即位宣言したことから、時代は分割統治から群雄割拠の色合いを強くしていきます。即ち、誰がこの、「帝位を僭称した皇帝」を討つか・・・ということになり、最初に攻め込んだ皇帝は、諸都市の固い叛意の前に、逆に敗死・・・。次に攻め込んだ皇帝は、抵抗する城塞都市を殲滅し、見せしめとすることを選択しますが、逆にその情報はいち早く、イタリア半島全体に伝わり、他の都市を死に物狂いにしただけとなり、その皇帝は撤退を余儀なくされた・・・と。そして、最後に攻め込んだ皇帝は、叛乱に立ち上がった諸都市に対し、「罪は問わない」と宣言し、激しく抵抗した都市も撃破した後は誰一人、罪を問われなかったそうで、その結果、これが伝わるや、諸都市は戦わずして城門を開き、覇業に大きく前進したわけで、この皇帝こそが、後に大帝と呼ばれるコンスタンティヌスであった。次に、「内戦と寛容」というものについてですが、日本の戊辰戦争の時に、誰もその理屈に気づかなかったのかというと、そんなこともないわけで、西郷隆盛は賊軍でありながら、最後まで官軍相手に勝ち続けていた庄内藩の戦後処理に寛容を持って臨んだと言います。(この藩だけは、結局、最後まで負けないままだったそうで、哀しいかな局地戦であったがゆえに、賊軍の本丸である、会津と仙台が降伏したことを知り、もはやこれまで!ということで、やむなく降伏したと。ちなみに、このとき、庄内藩に負け続けたのが新政府側に付いた秋田藩で、救援に向かいながら一緒に敗走を重ねたのが我が筑前福岡藩だったという・・・。)まで駆けつけ、西郷軍に合力したとか・・・。      逆庄に内、藩会士津は戦、線西で郷はの、そ新の政温府情軍には感、謝寛し容、をそ持のっ後て、臨西ま南な戦か争っ勃た発がのゆ時えにには、、西北南の戦果争てのよ折りりは、る旧ば会る津南藩の士果がて多の数南、九新州1月号-135

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