おもしろコラム5月号
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老人特有の症状です。   (文:小説家         明治草創期、新政府で勢威をふるった薩摩・長州の二大派閥。薩摩人は、新政府構築についての意見を勝海舟に仰ぎ、長州人は福澤諭吉に求めたといわれています。二人は、まさしく、当時を代表する新時代の知識人だった。勝も福澤も、共に、当時の社会体制にあっては優遇された立場からのスタートではなかったこともあり、門閥優先の封建制度を激しく嫌悪しており、優れた能力者同士、一度出会えば、すぐに肝胆相照らす仲であったように思えるのですが、実際には、両人の仲はあまり良好なものではなかったようで、特に福澤は、勝が維新後に栄達を得たことを批判するなど、生涯にわたり批判的でした。この、福澤の「勝嫌い」は、元を辿れば万延元年(1860年)、咸臨丸での太平洋横断に始まります。このとき二人は、遣米使節団の一員としてアメリカ合衆国へ渡ったのですが、後に福澤をして、「蒸気船を初めて目にしてから、わずか7年たらずで、日本人の手によってのみ行われた世界に誇るべき名誉」と言わしめたほどのこの大航海ですが、実は、初めて経験する太平洋の荒波の前には、日本側乗組員の大半はまるで使い物にならず、事池田平太郎絵:吉田たつちか) 200605福澤諭吉は勝海舟が嫌いだった?    /-    5月号-124  

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