おもしろコラム5月号
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       「情けが仇」の見本? 「新平家物語」のDVDを見る機会がありました。若き日の仲代達矢扮する平清盛の乾坤一擲の気迫と、斜陽化してからの、やることなすことすべてが裏目に出るという閉塞状態が強烈に焼き付いております。 「清盛は頼朝を助けたばかりに、頼朝は平家を滅ぼしてしまった」という、巷間、言われる「情けが仇」の見本のように言われることについてですが、私は清盛が源氏の幼子を助けたというのは、決して間違っていなかったと思います。なぜなら、保元・平治の乱という熾烈な権力闘争の後、人々は新しく権力者になった平家という武力新興階級に対し、どのような人たちなのか不安があったはずで、それに対する不安感を払拭し、政権発足早々の人心掌握に意味があったと思うからです。私が学生時代に愛読した本の著者である大橋武夫氏も「平家の滅亡の原因は、よく敵に情けを掛けたことのように言われるがこれは違う。平家の滅亡の大きな要素は清盛亡き後、平家の側に清盛に代わる柱石がいなかったことだ。その意味では、清盛の長男で、器量人、重盛の早逝が惜しまれる。その証拠に、現に平家を都から追ったのは頼朝でも義経でもなく、木曽義仲なのである。」と書いておられました。たしかに義仲の将帥としての能力は非常に高く、大橋氏は「義経よりは上」とさえ言っておられたほどで、頼朝や5月号-135義経、範頼ら義朝の子らがいなかったとしても、木曽義仲(それがだめだったとしてもあるいは他の勢力)によって、結局は滅んでいただろうと思います。    

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