黒田如水に学ぶ原則線豊臣秀吉の懐刀で名参謀と呼ばれていた人に黒田如水という人がいます。この人は、秀吉の天下獲りに大きな功績があった人でありながら、同時に、秀吉とは徹底的に反りが合わなかった人物でもあります。為に、それほどの功績がありながらも、逆に秀吉にその才を警戒されて、生涯、冷遇され続けました。あるとき、秀吉が石田三成ら側近を集めた内輪の席で、「俺が死んだら、誰が天下を獲ると思う?」と問うたところ、 8月号-102 皆徳川家康、蒲生氏郷、伊達政宗らの名前を挙げる中、秀吉だけは、黒田如水の名をあげたそうです。これに対し、皆が、口々に、「まさか・・・。あんな、小さな大名が・・・。」と言い募ったとき、秀吉は急に真顔になって、「おまえたちは、あの男の恐ろしさが何もわかってはおらぬな。」と言ったといいます。そして、秀吉亡き後、実際にこの秀吉の言葉を裏付けるかのような事態が起こります。家康と三成の抗争、いわゆる、関ヶ原の戦いです。このとき、九州は豊前国(大分県)の小領主だった黒田家の隠居、如水は、即座に行動を起こします。まず、注目すべきは、この混沌とした段階で、「どちらにしても勝つのは家康」という判断をもち、それを踏み外すことはなかったことです。その判断の下、まず、当主である息子長政は、黒田軍の主力を率いて、東軍に参戦。(その功績により、戦後、筑前国52万石を与えられます。これが、いわゆる、筑前福岡藩です。)さらに、如水という人物の「秀吉が畏れた」真価が発揮されるのはここからで、如水は、息子を東軍として送り出した後東西両軍が激突する間隙を縫っての天下獲りを狙います。九州の西軍勢力の多くは、こちらも黒田家同様、主力は殆どが関ヶ原に行ってるわけですから、如水はこれを好機とばかり、九州の西軍勢力を片っ端から撃破。瞬く間に、
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