おもしろコラム8月号
126/167

派の対立が生じ、五代時頼のクーデターを経て、ついには武力衝突へと発展。有力御家人・三浦氏が打倒される宝治合戦へと至っている。ところで、「大日本帝国憲法」というものも、伊藤のような調整型のリーダーには非常に使い勝手が良い制度、というよりむしろ、伊藤だからこそ使いこなせた制度、もっと言うなら、伊藤が自ら政権運営することを前提に作った制度であったと言えただろう。日清戦争中に伊藤首相が見せた手腕は、師・吉田松陰をして、「周旋の才あり」と言わしめた面目躍如で、外は列強、内は軍部から宮廷まで、ありとあらゆるところに目配りし、あちらを立てればこちらも立てる・・・の調整能力はもはや職人芸ですらあった。伊藤は戦役中、その名人芸で戦争指導に邁進したが、ただ、自ら体を張って軍部の専横を矯正するようなことはしていない。その意味では、こういう制度は後継者たちが先達同様の調整能力を持/-          池田平太郎絵:吉田たつちか)202508つ場合は有効に機能するだろうが、無かった場合はむしろ弊害の方が大きいと言える。統率者が「右向け右」と言って、右を向くとは限らない体制だからである。この点が、スターリンやヒトラーのような独裁型と違うところで、したがって、明治政府でも、使いこなせたと言えるのは、伊藤の長州閥の後輩で日露戦争時の首相であった桂太郎くらいのもので、そのことは、伊藤後の日本の歴史が如実に示しているだろう。(小説家     8 月号 -126  

元のページ  ../index.html#126

このブックを見る