つまり、戦争を遂行するためには戦闘だけではなく、資源や食料の確保といった戦争全体を考えなければならず、その意味では、ヒトラーのそれは必ずしも的外れでもなかったわけで、そのことは、同時期に大陸の反対側で攻勢をかけていた日本軍の極端な補給軽視姿勢を見れば納得できるものがあるでしょうか。その意味で、判断としては、決して、間違っていなかった・・・、私もその立場にいたら同様の判断を下した・・・と思えるもので、かつ、それが、最悪の結果に終わってしまったという例がひとつだけあります。それが平泉中尊寺の金色堂で知られる奥州藤原氏最後の当主藤原泰衡の決断です。まず、藤原氏は、泰衡の父、三代秀衡の晩年に、平氏討伐に目覚ましい活躍を見せた源義経を保護し、その異母兄、源頼朝と対決姿勢をとっています。ところがまもなく、秀衡が死に、泰衡が家督を継ぐと泰護派であった二人の弟も殺し、頼朝に対し恭順の意を示す も衡、は頼頼朝朝はのそ圧の力まにま屈奥し、州義に経攻をめ殺込害んしで、た泰ば衡かはり逃か、亡義中、経家擁8月号-93
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