おもしろコラム1月号2024
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れは、極めて苦肉の策的なイレギュラーなケースであり、あまり、国家指導者が取るべき対応としては現実的だとは    1月号-122  言えないでしょう。(そもそも、日本は先の大戦に負けたときから、アメリカの軛の下に置かれているわけで、それから抜け出したいのなら、もう一度、戦争してアメリカに勝つか、アメリカの力が弱まるのを待つしかなくだとすれば、嫌な目にあわされようが、信長に我が子の首を差し出した家康よろしく、とにかく、我慢するしかないように思います。)そして、この点で、欧米列強の侵略に対して、独立を守ったタイの対応と並んで、好事例のひとつとして挙げられるのが、第二次大戦中のフィンランドの指導者、マンネルハイム元帥の「勇気ある妥協」です。以下、我が敬愛する大橋武夫氏の著書「ピンチはチャンス」から一部、抜粋しますと、『1939年9月1日、第二次世界大戦勃発とともに、ソ連はフィンランドに対し以下の条件を強硬に要求してきた。①カレリア地峡の国境より40kmほどの部分の領土割譲。②フィンランド湾内の四島の譲渡。③ベツモア地区内の漁夫半島の譲渡。④ヘルシンキ西方120キロのハンコウ湾にソ連海軍基地設置。これに対し、当時、フィンランド軍を指揮していたマンネルハイム元帥は「承知せよ」と進言したが、政府はこれを拒否。そのため同年11月30日、ソ連は50万の大兵をあげて、フィンランドに侵攻してきた。フィンランド軍13万は、マンネルハイムの指揮のもとに、雪と複雑な地形を利用して善戦し、ソ連軍に20万もの損害を与えて大いに苦しめたが、頼みにしたスウェーデンの援助もなく、国際連盟の仲裁も実効がなくて、漸次苦境に陥り、衆寡敵せず、翌年2月、マンネルハイムの切なる進言を納れて、ついに無条件降伏した。このときの、ソ連側の和平条件は、①カレリア地峡の割譲。  

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