おもしろコラム1月号2024
146/176

もそも、何であいつなんだ」、「あんな新参者より、俺の方が古いぞ」となるもの。「クーデターを未然に防ぐために最も効果的な方法は、戦争だ」と言ったのはフランスの皇帝・ナポレオン三世ですが、諸葛亮もそうなる前に、「正義は我にあり」で魏へ攻め込む。しかも、当時、魏は圧倒的な超大国。力の差は歴然でしたが、しかし、正義を旗印に超大国に立ち向かうからこそ、国内は結束するもの。(いつの時代も、「正義」というものは、「勝てる勝てない」を超越する美酒のようで。)ただ、魏が自ら皇帝を名乗ると、蜀は自家撞着、難しい判断を迫られます。魏の皇帝を認めれば下風に置かれる。と言って、蜀も皇帝を名乗れば、分家が本家に取って代わっ「劉」姓自体、ありふれた姓でした。(その劉邦の漢王朝滅亡懸後命、に動戦乱っをて勝いちる抜うきち、新はたとにも皇か帝くと、な落っちた着劉い秀てとくいるうと人、「がそ、    1月号-146  たまたま、同じ「劉」姓だったことから、自分は、「漢王朝を再興した」正統な君主と称した結果、劉邦創始の漢を「前漢」、劉秀創始の漢を「後漢」と呼びわけることになったと。)もっとも、と言って、劉秀や劉備が本当に漢王朝の縁に連なる人だった可能性までは否定しませんが。さて、劉備死後、後事を託された宰相・諸葛亮のもっとも賢明なところは、蜀王朝のまだ礎も固まらないうちに、先帝の遺志を継ぎ、大国魏に戦いを挑んだことでしょう。一見すると軽率のように思えますが、皆、王朝樹立に向けて

元のページ  ../index.html#146

このブックを見る