おもしろコラム1月号2025
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が、戦国時代に瀬戸内海を東上してきた毛利の兵は上陸したものの船酔いで使い物にならず、そこを黒田官兵衛の奇襲に遭い敗退している。ま陸したと思ったら、守備隊はわずかな兵で全滅するまで戦う。元軍将兵は硫黄島攻略後のアメリカ軍同様、この先の本土での抵抗を思い、暗澹たる気分になったはず。そう考えれば、満州族はよく、さらに先の九州本土に向かおうと思ったものだと。そもそも、満州族は、どこで多くの奴隷を積んで外海を渡れるような大型船を50隻も作ったのか・・・という気はする。船というものは作って波間に漕ぎ出せば良いというものではない。 刀伊は数年前から、既に高麗(朝鮮)沿岸で跋扈していたようであるから、あるいは、拉致した中に船乗りがいたか、それともこれに困った高麗人が、「うちよりもっと良い所がある」で日本へ向かわせたか。(捕虜3名全員高麗人だったとか。)ところが、思ったより航海は大変で、犠牲も多かった割に、収穫が少なかったことで、「帰りの駄賃」で高麗を襲った。が、待ち受けていた高麗官であれば、敵の兵力も装備もわからしなていや上、は瀬、戸周内辺海豪と族違らいが玄合界流灘しのて荒く波る。ま元で寇大時宰も府同に様籠でる、・よ・う・やとくい、上う    1月号-152  判断をしたであろう。が、このさがな者は天性の戦士だったようで、兵が集まるのを待つことなく即座に出撃。まさに、孫子に言う「兵は拙速を尊ぶ」であり、クラウゼヴィッツが言う「断固として血を流す者にはすべてが敗れる」である。ただ、相手兵力次第では、壱岐の守備隊同様、全滅した可能性も否めない。

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