おもしろコラム2月号2024
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       戦前のスーパーエリート一高東大渋沢栄一は孫の敬三が生物学者を志しているのを知りながら、跡を継ぐことを懇願、意に添わぬ実業界へと進むことになるのですが、それは他の子供たちも同様だったようで、文筆の道に進みたいという四男秀雄(栄一52才のときの子供)に対しても、同様に懇願。結果、秀    2月号-128  雄は関連会社で田園調布の建設に携わることになるのですが、敬三が生涯、学問への憧れを持ち続けたのと同様に、戦後、公職追放になった後は文筆家に転身。随筆の執筆やテレビやラジオのコメンテーターとしても活躍したと。(敬三も、生物学者であった昭和天皇に謁見した際には、生物学の話で盛り上がり、退室後、「はて、渋沢の所管は何であったか?」と聞かれたとか。)では、懇願しなければならないほど、栄一の子孫に人がいなかったかというとそうでもなく、栄一の実業家としての血をもっとも受け継いでいたのが三男の正雄です。栄一の子や孫のうち、この正雄だけが、自ら進んで実業界へ入り、富士製鋼、石川島造船所、秩父鉄道、日本鋼管などの渋沢系の会社を引き継ぐ一方、昭和5年「石川島飛行機製作所」を創立、初代社長に就任しています。(栄一の (1930)には、自ら  

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