おもしろコラム2月号2024
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ないということですね。ところが、そう言いながらも、この点では、実に興味深い事例があります。豊臣秀吉の片腕として、太閤記などでも有名な黒田官兵衛の嫡男黒田長政が、関ヶ原の戦いの功績によって筑前一国を与えられたことから創設された筑前福岡藩52万石ですが、その長政は晩年、嫡男忠之の気性を危ぶみ、これを廃嫡し、弟長興を二代藩主とすることを検討したといいます。ただ、このときは、忠之付きの重臣、栗山大膳が強く反対したことで、これを断念し、やがて、長政が死ぬと、忠之が二代藩主となったのですが、時が経つに連れ、忠之はその危惧されたとおりの気性で、実力者・栗山大膳との軋轢を深め、その結果、大膳から幕府に対し、「忠之に謀叛の心有り!」と訴えられてしまいます。これが、映画や講談などで有名な「黒田騒動」と呼ばれるお家騒動なのですが、まあ、曲折あった物の、結果は無罪となって一件落着・・・となるのですが、あわや、お家お取り潰し・・・の存亡の危機にまで行ってしまったわけですね。一方その忠之の子供である三代藩主光之は嫡男綱之を「酒癖が悪い」という理由で廃嫡し、弟である綱政を四代藩主とします。ところが、その光之が、当時としては記録的な長命の80歳まで生きながら、最後まで実権を離さなかったことから、光之は綱政とも険悪となり、その結果、光之死後、綱政の恨みは光之側近で実力者であった立花実山へと向かい、さらに、廃嫡後、長年にわたり幽閉されていた実兄綱之が復権する事への恐怖へと繋がり、それから間もなく、二人とりにもタイミングが良すぎたこともあり、幕府から「兄の復権を恐れた綱政が殺した」と嫌疑が掛けられ、黒田家は再もび幽、死取しりた調こべとをか受らけ(る死こ因とにとつないりて、はま定たかもでやは、な「い第よ二うので黒す田が騒・動・」・と。呼)、 ばれ少るなおく家と存も、亡綱の之危機死を去もにた対らししてては、しあまうま2月号-91      

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