を旗印にしていたように、こちらも信仰対象である「愛染明王」か「愛宕権現」の「愛」だったようです。彼の智謀が主君上杉景勝を導いたということは否定しようがない事実なのでしょうが、私にはその中でどうしても首を傾げる判断があります。まず、武田信玄と上杉謙信、好敵手として史上名高いこの二人は、同時に、この時代の有力武将には珍しく最後まで家督を譲ろうとはせず、現職のまま没した人物です。ただ、信玄とは対照的に、謙信は生涯妻帯もしなかったことから、当然のように実子がなく、養子として実甥の景勝を迎えていたものの北条氏康の八男を人質に迎えた際に、これにかつての自分の名乗りである景虎という名を与え、人質としてではなく、養子としてしまったことから話がややこしくなっていきます。景虎にすれば感無量のものがあったでしょうが、すでに後継予定者となっていた景勝からしてみたら、「叔父さんは何てことをするんだ!」と思ったでしょう。その結果、謙信が没した直後から当然のように「御館の乱」と呼ばれる養子間の内乱が勃発しますが、ただ、この時点で兼続は数えの19歳。微妙なところですが、2年後にはもう重用されていたということを考えれば、このときも、景勝から何らかの諮問はあったと考えて良いのではないでしょうか。その上で、私が首を傾げるのは、景勝が上杉家の家督を相続することを優先し、大敵、織田信長の存在を後回しにしたことです。当然、機を見るに敏な信長がこの好機を見逃すはずもなく、内乱が長期化する間に領土は瞬く間に侵食され、終結したとただ、 4 月号 -116
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