おもしろコラム4月号2020
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2007-04一転、毛利と結び、その力を背景に主家・浦上家を滅ぼし、これによって備前一国と備中、美作、播磨の一部を領有する戦国大名に成長。さらに、今度は毛利輝元と中央で勃興した織田信長の対立が尖鋭化し、次第に毛利家の旗色が悪くなってくると、これまた一転、織田家の部将、羽柴秀吉(後の豊臣秀吉)の勧誘に応じ、毛利家を裏切り、積極的に毛利方へ攻撃を仕掛けます。この男の成長戦略というものは、割とはっきりしたものであった。一言で言うならば、「より強い奴と組んで強い奴を制する」というものだった。この男の凄いところは、その「明確な戦略」を、「明快に実行」に移してきたところにある。その為には、決して、手段を選ばなかった。身内・親戚・恩人・主君・・・、何ら躊躇うことなく毒殺、謀殺ばかりで今日を成し、戦いらしい戦いは殆どしなかったとさえ言われています。直家と生涯、行動を共にした実弟でさえも、直家の前に出るときは、暗殺を用心して、鎖帷子(くさりかたびら)を着用していたとさえ言われています。本当に最終目標にまで到達することが可能であったようにも思えてきますが、現実には、直家の天下は来なかった。直家自身が、毛利と織田の抗争が激しさを増しつつあった天正10年(1582年)、死去していたからだ。直家存命ならまだしも、後に残されたのは、9歳の一人息子・秀家であり、それに何より、もう、この頃になると、宇喜多家は織田家の中国戦略やその後継者・羽柴秀吉の天下統一路線の中に組み込まれてしまっており、それ以上の成長は無理だったでしょう。むしろ、ここまでで終わったと言うところが、所詮、直家の戦略の限界だったのかも知れません。(小説家池田平太郎絵:吉田たつちか)/96

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