おもしろコラム6月号
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       幕末の名君として知られる島津斉彬という人物ですが、彼は愛弟子である西郷隆盛の後年の活躍から、少し、神格視されすぎている傾向があるようにも思います。一例を挙げると、斉彬は、安政の大獄に対して、局面打開のために軍事力をもっての形勢逆転を企図しましたがその決断などには、少し疑問を持ちます。あの時点では、遅かれ早かれ、斉彬にも何らかの処分が下されたでしょうから、彼としては他に手がなかったといえるのかもしれませんが、それにしても・・・と。 まず、斉彬には勝算があったのか?ということです。兵力を率いて東上したとしても、途中の彦根には敵の大将      である井伊直弼の井伊家が控えているわけで、直弼という人の性格からして、また、武士というものが本来、戦闘集団であることを建前としていた以上は、「はい、どうぞ」ということにはならなかったと思います。おそらく、直弼は幕府大老として、諸大名に出陣を命じ、かつ、幕府兵力を動員するでしょうから、精強でしられる島津軍も迂闊には手を出せない・・・。となると、島津軍は、まず、京都で朝廷を押さえる挙に出たと思いますが、すぐ傍にいる井伊家がこれをみすみす指をくわえて見過ごすはずもなく、天皇はむしろ井伊家が保護下に置いたでしょう。 その後、直弼としては島津軍に正面切って決戦を挑む、あるいは、そのまま薩摩に攻め込むなどというような愚かな策は採るはずもなく、斉彬が出兵した後に、斉彬と不仲の実父、斉興にお家安泰と引き換えに斉彬を廃嫡させればいいわけで・・・。島津軍は精強とはいえ、孤立無援のまま、立ち枯れするように壊滅したでしょうか。 以前、誰だったか、「大塩平八郎の乱の時点で、西国雄藩のひとつでも立ち上がっていたら、幕府は倒れたのではないか?」という説を唱えておられましたが、私はこの論には否定的です。 島津斉彬の譲歩引き出し戦略6月号-125

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