おもしろコラム6月号
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         戦中戦後の難しい時期に、日本銀行総裁、大蔵(現財務)大臣を歴任した渋沢敬三は、本来、学者を志していた人ですが、祖父栄一から「銀行を継いでくれ」と懇願され、銀行家になりました。(生物学者でもあった昭和天皇とは談論風発、あまりに盛り上がったようで、敬三の退出後、天皇は「はて、渋沢の管轄は何であったか?」と聞かれたとか。)それだけに、民俗学に傾倒していたことから、実業の世界での栄達は本意ではなかったのですが、太平洋戦争開戦後の昭和17年(1942年)、46歳のとき、今度は日銀副総裁に就任します。(抵抗するも、東条英機首相からの「サーベルの音をガチャガチャ言わせて」の説得にやむなく受諾。)その後、総裁を経て、終戦直後の昭和20年(1945)、これも固辞したものの、妻の親戚・幣原喜重郎首相の説得を受け大蔵大臣に就任。望まぬ方向へ方向へとずれていく運命の皮肉ですね。ただ、敬三は破綻した経済を立て直すため、戦後の焼け跡の中、塗炭の苦しみに喘ぐ国民を、さらに丸裸にするような「財産税」の導入を実施。敬三は、後に「家が焼き討ちされることも覚悟した」と語っています。そこへ、占領という通告があったそうですが、敬三は指定解除願は大蔵大臣宛に出すと聞き、「自分に出すなんて」と言ってこれを辞退。自邸を物納し、自らは、隣接の運転手の小屋に移り住みます。(敬三は民俗学の研究でいろいろな田舎に泊まっ敬た三際と、しノてミはや、「シこラんミながタいイてミもン平グ気でで財寝ら閥れ指る定人解だ除っ願たをそ出うすでこ、とどはう、し世て間?がと承聞知かせれんるだとろ、「う僕」のと家いはう元判々断百が姓あだっよた」6月号-127と言っていたとか。)ニコニコ笑って没落軍GHQから澁澤同族株式会社に「財閥解体命令を下したが、やはり財閥には当たらなかったので、取り消してもいい」  

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