おもしろコラム7月号
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条、武田という巨大勢力・・・、というまさに、今川の屍肉を挟んで、西へも東へも進めない袋小路状態だったわけで、ある意味、信長よりも難しい判断を迫られていたと思います。この時点で18歳の家康は進路を東へ決定したわけですから、一体、どういう脳みそをしていたのか、大変驚きます。(以後、自領西端で秀吉を迎え撃ったことはありますが、関ヶ原まで西へ向かうことはなかったわけです。)確かに、今川崩壊後、武田、北条がその旧領へ進出してくる→その為には、少しでも自力を付けておく→取りやすい後継者秀吉)は比べものにならないくらい巨大になっており、今更、西へ出ることはできなかったということも言えるでしょう。しかし、家康が信長以前の旧タイプの武将であったら、今川の旧領を併呑しながらも何だかんだ言っても織田領にも隙があったら侵食し、少しでも巨大化しようとしたはずです。家康にはやはり、信長の「方向」という物のもつがよく理解できていたのではないでしょうか?方向性とは、下から順に「戦闘→戦術→戦略→目標→目的」と、これらをつなげた物であり、下から積み上げていくことはその都度、必要なことをしていくことであり、それほどの難事ではないのでしょうが、これに一貫性を持たせる為には、上位を先に決定する必要があるわけですが、それは、ある意味、この矢印を逆に決定していくわけですから、降ってくる物を逆に読んでいくようなもので、誰にもそれができるというわけではないようです。(文:小説家  池田平太郎絵:吉田たつちか)200607/-  今階川で領はへ、出西るに→はそ小の国結な果れ、ど武斬田新、な北政条策勢を力展と開必し然つ的つにあ国る境新が興接の触織し田圧、迫東さにれは、崩気壊がし付ついつてあみるれ今ば川、家同と盟そ者の信向長こ(う及にび北    7月号-132  

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