おもしろコラム7月号
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とになったようですが、義経の屋島攻略もまた平氏の主力を牽制した範頼の本軍あってのものだったと言え、さらに言えば、範頼軍のもたつき自体、補給に目処が立たぬのに、頼朝が無理矢理、進撃を命じたことにあったわけで・・・。補給は本来、後方業務を担っている頼朝の責任だったのでしょうが、頼朝としても大消費地である京都で3万もの兵士の食糧を調達することは容易ではなく、このまま、京都に置いておくことは、木曽義仲の二の舞になる可能性が危惧されたということだったのでしょう。つまり、何でも良いからとにかく出発しろ・・・と。さそりの、後平、家範の頼前は線兵基糧地不・足屋な島どをの攻厭略戦し気、分そかのらま勝ま手、に壇帰ノ国浦しまよでう義と経すのる快御進家撃人がた続ちいをた説こきと伏もせ範、頼豊無後能国説(を大裏分付県け)る豪こ    7月号-138  族の協力などを得てようやく、兵糧と兵船を調達すると、一路、九州に上陸し、そのまま北部九州を制圧・・・。 これにより、平氏軍は最後の砦とする長門国彦島(下関市)に孤立することとなってしまったわけですから平氏の滅亡はこのとき、決まったと言ってもよかったでしょう。そこへ、屋島を制圧した四国担当の義経が合流してきたわけですから、範頼からすれば、苦労しながら王手を掛けたところへの合流だったわけで・・・。結局、壇ノ浦合戦は範頼が憂慮していた通り、義経の一人勝ちのような形となってしまうも、それらのスタンドプレーは、やがて頼朝との対立を招き、結果、義経は都を追われ、奥州の地で自害。しかし、頼朝の後継資格者排除の動きは、義経の轍を踏むことの愚を憂慮していた範頼にも向けられ、建久四年(1193年)、範頼は色々と言いがかりを付けられた挙げ句、ついに、伊豆国修禅寺に幽閉され失脚、後に誅殺されたと伝わっています。     (小説家 池田平太郎絵:吉田たつちか)200907 /-  

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