おもしろコラム7月号
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年)、豊臣秀吉の小田原征伐が勃発すると、反対意見を抑えこんで徹底抗戦を主張。秀吉もその辺の力関係は的確に把握していたのでしょう、戦後、兄、氏政と共に切腹を命じられています。一方、板部岡と並んでもう一人、外交に尽力した人物に北条氏規がいます。この人物は氏政、氏照らの同母弟になりますが、五男坊ともなると、もう、単なる人質要員。そのため、幼少時は駿河今川家に人質として出され、この頃、同じく、今川家の人質となっていた徳川家康と親交を持ったといわれています。(まあ、この辺は伝説の域を出ない話ですが、私はその後の両者の親密な交流を見れば十分に有り得る話ではないかと。)この辺は、言うならば、同族企業北条において、氏政代表取締役社長会長、氏直代表取締役社長、氏照代表取締役副会長に、氏規取締役営業部長、板部岡営業課長・・・といったところだったでしょうか。氏規は外交責任者となって後は、特に、その人脈を活かして対徳川外交に強みを見せたようですが、それだけに板部岡とともに「世界」の現実が見えていたのでしょう。秀吉への臣従を強く主張しますが、結局、兄たちが受け容れるところとならず、小田原征伐が開始されると韮山城に籠り、大軍を相手に善戦するも、最後は家康の説得を受け入れて開城しています。この辺り、とかく、軍部と外務省とは見解が違うもの、そして、最後は勇ましい軍人の意見に引きずられるもの・・・なのでしょう。(小説家 池田平太郎絵:吉田たつちか)201607-第4章 歴史のコラム         7 月号 -139

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