おもしろコラム7月号
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 ()-  池田平太郎)202107かく建物の中は水洗トイレでも、一歩外に出ると大八車が汚物を運、「ぶ水光を景流がさ見ならいれでた立と去いるう者こ」と(で一すつねだ。(けでちはななみにく、、    7月号-140  丸の内の一角には、今でもまだ肥溜めらしきものが生きています。植え込みの中に、強烈な悪臭とともに、今にも朽ちそうな木の蓋があるのですが、ここに限らず、なぜか、こういう物は木の蓋が多いんですよ。たぶん、鉄だとすぐに腐食してしまうからでしょうね。)で、俳人・高浜虚子が、大正12年(1923年)、ちょうど、関東大震災のときに、丸ビルに入居していたそうで、当時の丸ビルのトイレについて回想しています。曰く、落書はまだいいとして、「洋式便器の上へ上って用を足す者」使い方はビルの開館当初、ドアに使い方の張り紙がしてあった早朝などに行くとすべての便器に汚物が浮いていた)、「便所につるしてある紙をまるめて、穴の中にごしごし突っ込んでいる者」(むしろトイレットペーパーが既にあったということに驚き)などなど。掃除婦は「とがめるよりも、先に立って、こちらで清潔にすると、遂にはいたずら心を止めるようになろう」と言っていたそうですが、いつの時代も清掃の人は大変ですよね。ましてや、三菱一号館はその30年前ですから、どういう状況だったか・・・。ただ、この点で言えば、大正天皇のトイレは既に洋式便器でしたが、我が家に初めて洋式便器が御目見得したのは残念ながら、昭和45年(1970年)頃。それでも、最初は違和感あったし、抵抗もありましたよ。ましてや、その50年、80年前でしょ。利用者たちにも、西洋の物を押しつけられることへの反感もあったのかもしれませんね。     (小説家 

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