おもしろコラム8月号
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らの背後を固め、相手の背後にいる勢力と結ぶ」というもので、しかしながら、敵もさるもの引っ掻くもの。家康が背後の北条と同盟を結ぶと、秀吉は背後の毛利を手懐け、さらに、秀吉が北条を牽制すべく、その背後の佐竹と結べば、家康は同じく秀吉の背後の四国の長宗我部や紀州の根来や雑賀衆などと結ぶ。北陸では、家康が秀吉嫌いの佐々成政と結べば、秀吉は盟友の前田利家を差し向ける・・・と。その結果、秀吉からすれば長宗我部は毛利が牽制してくれたものの、紀州勢は秀吉の留守を狙って堺や大坂に攻め込み、秀吉はたびたび、家康と睨み合いが続く戦場から抜けて大坂へ戻ることを余儀なくされています。しかし、秀吉は長久手で一敗地に塗れた後、一転、外交攻勢に出て家康を圧倒。やむなく、家康は次男を人質として差し出し秀吉と講和。講和したことで家康が表立って動けないことを尻目に秀吉は紀州や長宗我部元親を制圧。追い詰められた家康は北条との結びつきを強めざるを得ず、これに従おうとしない真田昌幸を攻めて大敗。この辺はちょうど、アメリカがベトナムを攻めて苦戦するのを見てソ連がほくそ笑み、ソ連がアフガニスタンを攻めて上手くいかないのを見てアメリカが喜ぶ・・・と同じような観があるでしょうか。家康は絶体絶命の窮地に追い込まれ、秀吉と戦ったことを後悔したでしょう。ところが、ここに天正大地震が起こり、秀吉方に甚大な被害が出たことから秀吉も軟化。結局、家康は秀吉に臣従するという結末を迎える。つまり、小牧長久手の戦いとは、戦闘は家康の勝ち、戦争は秀吉の勝ち・・・だったでしょうか。     (小説家池田平太郎絵:そねたあゆみ)201608/- 8月号-105

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