おもしろコラム 8月号
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実際の戦場   中国戦国時代の趙の武将に趙括という人が居ます。時には、兵法論議で名将といわれた父を論破するなど、幼少時より兵学に通じていた人ですが、父は死ぬまで息子を認めようとしなかったとか。理由を尋ねられると、父は、「戦とは生死のかかったものなのに、息子は無造作に論じている。任用されずに済めばよいが、将になったら趙軍は必ず壊滅するだろう」と返答したといいます。で、後年、趙に攻め込んだ秦はその分厚い守りに手を焼き、一計を案じます。「秦軍は兵法の名家たる趙括が指揮を執ることを恐れている」という流言を広めたわけです。これに乗った趙王は、せっかくよく防いでいた将軍を罷免して、趙括を総大将とする人事を発令。これには、名宰相と呼ばれた人から、趙括の実母までもが「任に非ず」と言って反対しましたが、王は構わず押し通しますが、結果は父が案じていたとおり、趙軍は大敗。趙括は戦死し、趙軍40万は降伏、240人の少年兵を残し、全員、生き埋めにされたと伝わります。成は、家康の大坂侵攻の報を聞き、その夜のうちに城など、これでよくぞ壊滅しなか同っ様たののこはと、は戦、い日に本次でぐも戦あいりでま鍛す。え大抜垣か城れでた徳戦川国家武康士と団睨だみか合らっこてそい」たと石喝田破三し  –149–   

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