おもしろコラム8月号
87/146

臣に殺され藤原氏は滅亡する。初代清衡以来三代に渡って栄華を誇った藤原氏を、秀衡の死藤原泰衡の決断後、わずか2年で滅ぼしてしまったことで、史家の泰衡を見る目は冷たいものがあります。しかし、私には泰衡の決断は必ずしも間違っていたようには思えないのです。すなわち、藤原氏は義経を擁していたとしても、果たして戦って勝てたのか・・・という点で。まず、藤原軍は、源平争乱を戦い抜いてきた源氏の精鋭と違い、約五十年にわたって戦争を知らず、おそらく戦争経験がある将兵は皆無だったでしょう。そして何より、藤原氏は、奥州17万騎と号したものの、おそらく、実態は相当に水増しされた数字であって、兵力という点で、まともに戦えるレベルにはなく、その為、藤原氏は初代清衡以来、中央政府に対し、徹底して、追従外交に終始して、決して、全面戦争の口実を与えていません。秀衡が死に臨んで、息子たちに「今後は義経を主君として仕えよ」と遺言したことも、あくまで、源氏同士の内輪もめという形にして、決して、中央政府対藤原氏という形にしてはならないという認識があったからだと思います。さらに、義経の軍才と藤原氏の兵力が結びついたことで頼朝も迂闊に手が出せない・・・といっても、この微妙なバランスがいつまでも保てたかという点も疑問で、それを国是とするのは大変、危険なことだったでしょう。それらを勘案すれば、藤原氏は、徹底して頼朝に討伐の口実を与えるべきではなかったのでしょうが、奥州に近い鎌倉に政権が成立した以上、かつてのような遠交近攻外交が通じない時代が来たということであり、いずれにしても難しいところだったでしょう。      (文:小説家 池田平太郎絵:吉田たつちか)209008/-      8月号-87

元のページ  ../index.html#87

このブックを見る