おもしろコラム8月号
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であり、時代が「泰平の世」で終わっておけば、彼は「財政を見事に立て直した名宰相」で終わったでしょうが、この点は如何せん運が悪かったと思います。しかし、大政奉還後の混乱に在って、江戸藩邸などを処分した金で当時、日本に3門しかなかったガトリング砲2門や、フランス製新式銃2千挺などを購入したのは極めて不適切な処置だったと思います。小藩が中途半端に、こういう物を持つのは弊害の方が大きくなるからです。もっとも、河井は何も最初から、「戦争ありき」でもなかったとも事実でしょう。この点では、開戦前、河井は、新政府軍本陣に乗り込み、「自軍の充実ぶりを背景に長岡藩が東西両軍を調停する」という構想を披瀝しようとしたものの、新政府軍軍監として交渉の場に出てきたのが、土佐の岩村精一郎という見識低い「若輩者」であったことが、河井の不運のように言われていますが、私はこの点では、岩村の判断を支持します。まず何より、新政府は別に長岡藩の仲介など必要としていないわけで、河井には河井なりの理想があったようですが、その意味では、理想の押し売りに過ぎないとも言えるでしょう。勝算というならば、長岡藩が粘っているうちに、心ならずも新政府に従っている反対勢力が立ち上がってくれるということを期待していた・・・とも考えられますが、もし、そうであるならば、それはあまりにも無責任にすぎる勝算と言えたでしょう。こういう場合の付和雷同は世の常、大坂の陣において、豊臣恩顧の武将たちが誰も立ち上がらなかったことが良い例で、無論、楠木正成の千早城のような例もありますが、このケースは、正成に勇気づけられて我も我もと決起したわけではなく、足利尊氏という大勢力を保有する人の野心の結果という面が大きく、言い換えれるかもしれない」というそれは、あくまで希望的観測に過ぎないと。総括するならば、まず、河井が構想として描いてばい、た単とに言付わ和れ雷る同「す両べ軍きの対調象停が」変自わ体っ、た夜と郎い自う大にの過観ぎはな拭いえとずも、いそえれるがわ不け調でにす終。わそっのて意、味あでれはほ、「ど立のち大上戦が争っのて戦く端れを8月号-89    

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