おもしろコラム9月号
125/182

その後、一旦、父親に言われるままに帰郷し、近隣の娘と結婚したものの、村医者としてはあまりにも優秀すぎたのか、患者に対しては診察よりも講義をしてしまう傾向があったようで医者としてはあまり芳しい評判がなかったのに対し、一方では、その学識を惜しむ声は多く、やがて、伊予宇和島藩から求められて出仕、西洋兵学の翻訳と講義を受け持ち、その後、安政3年(1856年)には宇和島藩御雇の身分のまま、幕府の蕃書調所教授方手伝として幕臣となり、さらに万延元年(1860年)、噂を聞きつけた故郷長州藩からの要請を受け、長州藩士となり、やがて、文久3年(1863年)に長州へ帰国。帰国後は、西洋学兵学教授となったものの、その翌年、長州藩は軍部の暴走により、蛤御門の変にて大敗し、その結果、幕府の第一次長州征伐を経て高杉晋作の決起による内乱状態となってしまうわけですが、やがて、討幕派が政権を掌握すると、高杉や桂小五郎ら藩中枢は西洋式兵制の採用を推し進め、書物を通して、この点に一番詳しい大村にその指導を要請・・・。ここで、面白いのは、長州藩は、これまでの相次ぐ戦乱で、多くの人材を失っていたこともあり、大村は講義だけでなく、実際の作戦指導まで任されることになったことです。なぜなら、大村その人は本の中でしか戦争を知らない単なる学者であり、   その人に作戦指導を任せてしまったということは、今日で言うならば、軍事に詳しい大学教授を、そのまま、自衛隊の司令官に任じてしまったようなものでしょうが、インパクトの上ではむしろ戦争マニア、あるいは兵器オタクを防衛大臣兼参謀総長に任命した・・・と言った方がうが、インパクトの上ではむしろ戦争マニア、あるいは兵器オタクを防衛大臣兼参謀総長に任命し124

元のページ  ../index.html#125

このブックを見る