おもしろコラム11月号
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池田平太郎絵:吉田あゆみ)201111校長には先の将軍、徳川慶喜のこれは無理もない話であって、秀吉没後、忠君報国の価値観は帝国日本にも受け継がれたことを考えれば、実際には    11月号-138  350年、そういう価値観の時代が続き、対してその価値観に縛られなくなってからはまだ6565年程度しか経っていないわけで。     (小説家           徳川家の兵学校幕末、大政奉還の後、徳川家は鳥羽伏見の戦い、江戸開城などを経て、それまでの800万石から駿府藩70万石   /- のでしょう、移封早々の明治元年(1868年)、沼津城に兵学校を開設しました。 の大名として存続することになった徳川家。改めて、今更ながらに旧幕臣の子弟らに対する教育の大切さを痛感した信頼厚い学者で、西洋新知識にも精通する旧幕府の最高の頭脳、西周(にしあまね)を据えた辺り、並々ならぬ意気込みが見て取れるでしょうが、ところが、ここへ入校を命じられた旗本御家人の子弟らは、門閥家らしく、仙台平の袴に朱鞘の大小を差し、立派な行儀作法で颯爽と試験官の前に出たものの、驚いたことに、旧幕府の重臣である酒井雅楽頭(うたのかみ)を「さかいがらくのかみ」、井伊掃部頭(かもんのかみ)を「いいはらいべのかみ」と読んだとか。 酒井も井伊も徳川四天王の家柄で、おまけに、井伊掃部頭の方は幕末に安政の大獄を引き起こし、大老であ

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