おもしろコラム11月号
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策という物を知っていた可能性も否定できませんが、おそらくこれは人間心理に長けた秀吉オリジナルの着想だったでしょう。    割」せしめましたが、これらは意図ほどには成果を収められなかったようで、もっとも有効に作用したのが島津でした。戦国島津家は長らく内乱の中にあったものの島津義久を当主に以下、義弘、歳久、家久の有能な島津四兄弟の時代となって急成長・・・と、ただ、こういうと「四兄弟結束して」と思われがちですが、これは逆に言うと当主義久は他の有能な弟たちへの配慮を求められるということでもあり、当主としての発言力には限界があったのでしょうね。興した豊臣政権に屈服、その支配下に入った後、下の弟二人は先に没し、島津家は義久社長と義弘専務という体制となる・・・と。となれば、やはり弟義弘からすれば「専務取締役」とよりも「代表取締役」を名乗りたいのは人情なわけその後、遂には九州全土を併呑せんとするまでになるも、ここで中央に勃もっと卑近なところでは戦後の日本が占領秀軍吉のは直、接毛統利治かでらは小な早く川日隆本景政、府徳を川間かにら挟石む川形数に正な、上っ杉たかこらと直か江ら兼、続国を民「の分不    11月号-150  満はすべて日本政府に向かい、マッカーサーには感謝の手紙がたくさん行ったというのがわかりやすい例えだったでしょうか。(もっともアメリカも最初から間接統治で決まっていたわけでもないようですが。)で、戦国日本でこの妙法を最も多用したのが豊臣秀吉です。あるいは、秀吉は宣教師などから話を聞いて分割統治

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