おもしろコラム11月号
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まけに、そういう経緯があったことから島原の乱では莫大な犠牲と経費を負担。さらに、長崎警備の大任まで命じられたことで、藩財政逼迫の端緒を作るのでネロのように様々な悪い伝説の主とされました。忠之が、鷹狩りの帰りに、領内の寺に立ちよったところ、美しい寺小姓を見て恋慕。差し出せと言ったが上人は拒否。ところが、よくよく調べさせると寺小姓は本当は女だということが発覚したことから、激怒した忠之は上人を残酷な方法で処刑。その場所はそこだけ草が生えないと言われた。また、忠之は参観交代の帰途に大阪で美しい芸者を身請け。国もとに連れ帰っ   たが、側室がうるさいので、この芸者を側近に下げ渡したところ、側近はお綱という妻と二人の子がありながら、すっかり芸者に参って妻子と別居。おまけに仕送りもしないので、お綱は貧窮にあえぎ、遂に狂乱。幼い子供二人を刺し殺し、薙刀を小脇に本宅に駆けつけたが、逆に返り討ちにあう。お綱が手をかけたまま悶死した門はお綱門と呼ばれ、その柱木にまれたのは、事実上の戦国最終戦争とすいがう、べそきれ、は関さヶて原おのき戦、い忠の之2は年こ後う。いつうま殿り様、だ「け戦に国まをる知でら、な古い代子ロ供ーたマちの」暴とい君    11月号-152  うことで、祖父や父と違い、生まれながらの殿様。当然、リストラされる側の痛みなんてわかるはずもなく、家臣の反発に対する配慮も無い。結果、藩を存亡の危機に貶めた黒田騒動に至ってしまったわけで、その点では確かに「暗愚」と言われても仕方が無かったでしょうね。お

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