おもしろコラム11月号
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主負担。であれば、寄る辺ない子供たちが歓迎されるはずもなく、中には、その街で扶養され、養子にもらわれて行く者もあったそうですが、多くが虐待され、町から逃げ出すように仕向けられたり、遊郭や奴隷労働に売り飛ばされたりということがあったのではないかと。その状況に徳川幕府が重い腰を上げたのが、8代将軍吉宗の頃。(それ以前は、支配層は関心がなかったということ。)幕府は、「満よひ子の志るべ(迷い子の標)」という庶民向けの迷子告知石標を設けますが、これが、なかなか実効があったそうで、涙の再会が多々あったそうです。それでも、明治になって、現在の交番制度が整備されても、迷子はなかなか減らず、迷子石標は明治10年頃まで増設されていたと言いますから、江戸が、都市というより、「雑多な人間の集合体」であったということがわかるでしょうか。   (文:小説家 池田平太郎 / 絵:吉田たつちか)ましてや、人口100万を超える世界有数の人口稠密都市「江戸」ともなれば、迷子に加え、誘拐、捨て子も珍し    11月号-160  い話ではなく、これらの子供は、一応、発見された町で保護養育されることになっていたのですが、その費用は町地

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