広報いとう
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(B)トンネル通過地点と熱海湾の鳥瞰図(C)玉乃井旅館の栞詳しくは各支店または営農販売課(0557-45-6585)楽焼小屋の記載(A)湧き水と戦いながら掘削する作業員表紙の写真「落花生プロジェクト活動中」 営農販売課では今年度大粒落花生「おおまさり」の普及に向けた取り組みを行っています。詳しくはP8の「らっかせい通信」をご覧下さい。 昭和5〜9年ごろのものだろうか。今は廃業した玉乃井旅館の栞がある。「海岸新築和風三階楼」で温室や児童遊技場・芝生千坪の庭園を備え、楽焼小屋もあるという。何という賑わいではないか。 だが、私にはここで疑問が湧く。山から遠い海岸に楽焼の粘土があるはずがない。なのになぜ玉乃井では楽焼をPRするのか。じつは、大正14(1925)年12月30日から正月にかけて熱海海岸には大量の粘土が積もったのであった。 当時、工事中の丹那トンネルでは、その上の丹那盆地の底を抜くような大量の出水に悩まされていた。(A) この日も、水をふくむ粘土層にドリルが当たると高圧の濁流が一気に噴出。次々に堰堤を乗り越え坑道から海へと2週間にわたって押し出した。正月の熱海湾は一面に白く染まってせっかくの風景が台無しになったという。(B) 「とけた粘土分はやがて海岸一帯に沈殿しましたが、之れが名物楽焼の原料になった」と『丹那トンネルの話』にある。 転んでもただでは起きない熱海人は、出水の災いを逆に観光に活かしたのだ。一方、水を失った丹那盆地では稲作を酪農に変えて周辺の観光地の需要に応えていった。 山腹に長大なトンネルを貫けば想定外の出水で周囲の自然環境が激変する。  人々はそれを受け止めてどう行動したか。その教訓を今こそ想起すべきではないかと、玉乃井旅館の栞は私たちに訴えている。(C) 〈加藤 好一〉熱海市中央町41日本で唯一の日刊農業専門紙 日本農業新聞を購読しませんか?新楽焼と水とトンネル

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