広報いとう 12月号
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表紙の写真比べてみると?(A)村の人口の半分以上の男たちがやってきた「旧伊東市史」より作成(休日の取扱いにて営業いたします。)(B)伊東市宇佐美地区の地形図江戸時代初期の陶器が次々見つかった「桜田遺跡」伊東市教委提供国史跡となった「江戸城石垣石丁場」(B)宇佐美村人口1,756人(1685年)採石人数4大名計900人(1614年頃)10月9日(金)に今年のレインボーレッドの初出荷が行われました。 当日はJA御殿場の職員とキウイ農家が視察に訪れ選果の様子等を見学しました。詳しくはあいら伊豆ニュースをご覧ください。 今から400年以上も前の江戸時代初期、西国大名たちは多くの要員を伊豆に派遣し、江戸城石垣石の採石に必死になった。人口1700人ほどの宇佐美村には計900人がやってきたという。(Ⓐ) では、多数の青壮年がどっと入ってくると、村にはどんな変化が起きるか。  まず、人口が1.5倍化したので薪炭の消費も1.5倍以上に急増したと思う。鍛冶屋での石ノミ修理から炊事に至るまで大量の薪炭を使うからだ。夜明け時、村の人夫小屋からは朝飯や昼の弁当用の飯を炊く煙が一斉に立ちのぼったことだろう。 では、彼ら900人もの男は村のどこに住んだか。飲用や炊事洗濯には大量の水が必要なので川に近く広い土地がよい。 そうした場所・桜田地区に位置するのが宇佐美小学校。1991年、その建て替えの際の発掘では、昔の陶器皿などの破片が次々と見つかった。(Ⓑ)それらの使用年代は、男たちが村に来た時期とちょうど重なる。 この桜田遺跡は烏川・仲川に挟まれた標高6〜7mの広い平地で多くの人が居住できる。そこで、この地もまた石切人たちの生活地の一つであったと考えたい。 2016(平成28)年、宇佐美にある「江戸城石垣石丁場跡」は国指定史跡となり脚光を浴びるようになった。 ならば、そこで働いた人々は地域のどこに住み村人とどう関わったか。 400年前の外来事業の宇佐美村への影響を「人」の面からとらえ、その光やかげを考えて現代に生かしたい。   〈加藤 好一〉伊東市宇佐美43年末・年始のATMのお取り扱いについて12月31日(木)〜1月3日(日)9:00〜20:00採石で村は大賑わい?新

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