回覧板No.18 広報いとう3月号他
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表紙の写真あ た み(みなもと「の」 よりとも)北条政子ゆかりの伊豆山神社※イラストはイメージです。源 頼朝191月27日に宇佐美中学校3年生に受験合格を祈願して「合格ダイダイ」をプレゼントしました。詳しくはあいら伊豆ニュースをご覧ください。 源頼朝の夫人はなぜ源政子ではなく北条政子なの?…もしかして夫婦別姓?そう聞かれたことがある。 じつは、「源」という姓は皇位を離れた皇族に天皇が与えたのが始まりで、誰でも名乗れるものではなかった。 一方、「北条」とは地名であり、その地を支配する土着の武士が苗字(名字)としてそれを名乗ったのである。田舎武士の娘で、父母の身分も低い政子が源と称するなど、許されることではなかった。若干の例外はあるが、源「の」頼朝のように「の」がつく人は天皇が与えた姓を称し、北条政子のように「の」のつかない人は育った地域の苗字を名乗ったと言ってもよい。 頼朝亡き後、「の」がない政子が尼将軍として権力を握ったことは、鎌倉時代の地方武士が源氏を越えた証拠ではないだろうか。 さて、その政子、父に頼朝との結婚を反対されると伊豆山権現に逃れて愛を貫き、ついに願いを叶えたとの伝承がある。 では、政子はなぜ近くの社寺ではなく遠く伊豆山に走ったか。ここで歴史を紐解くと、北条氏の祖は伊豆山権現ゆかりの在地の武士、阿多見四郎聖範であった。  つまり、政子にとって伊豆山は親族もいる本貫の地。「北条」に進出しなければ「熱海政子」であったかも・・・? そう考えると、歴史は面白い。鎌倉時代の「夫婦別姓」談義が、筆の運びで伊豆山に至ったところで今回は終わりとしよう。 〈加藤 好一〉北条 政子(ほうじょう まさこ)熱海市伊豆山46夫婦別姓?頼朝・政子新

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