広報いとう+白波台自治会回覧板
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4月中旬からGWにかけて、いで湯っこ市場等で組合員の大川繁幸さんが出荷するオーストラリア原産の花「テロペア」販売しました。詳しくはP6-7「あいら伊豆ニュース」をご覧ください。「避病院」は伊東小学校(現伊東市立西小学校)の向かいに建てられた明治43年『豆州伊東眞景』詳しくは各支店または営農販売課(0557-45-6585)避病院跡(現ひぐらし会館)伊東村長・町長 大原 担(1861〜1945)図説「伊東の歴史」市教委編表紙の写真 明治の伊東でも感染症は猛威をふるった。明治33年からの6年間に赤痢3件・腸チフス13件。ジフテリアに至っては41件で26人の死者を出す。人口比で表すと、現在の市のコロナ感染者0.34%の倍近い0.63%に達していた。その多数の患者をどこに収容するか。小室村でも対島村でも、人里離れた地に避病院(隔離病舎)を建て、そこに移送して他者と接触せずに療養させた。  だが、伊東町長の大原坦はこの郊外型避病院の建設に異を唱える。伊東小学校は明治41(1908)年に今の西小の地に拡張移転するが、彼はそこから目と鼻の先、現・ひぐらし会館の位置に「伊東伝染病院」を建てたのであった。 こうした「迷惑施設」は、必要性は分かるが地元には歓迎されない。では、なぜ大原はこの地を選んだか。『伊東町誌』(大正2年)には、「重軽傷病室の二部屋に分かれ消毒室、看護婦室、医師室、薬局等」の「設備すこぶる完全」とその充実ぶりが誇らしげに記してあった。つまり、ただの隔離ではなく、家族の支えや手厚い看護、進んだ医療体制で患者の早期回復を図る。大原はそれこそが感染症対策の要と考えたのではないか。そこで、あえて街中に近い“こんなところに「避病院」”。 場所が場所だけに当時の町民は当時の町民は賛否両論。では、みなさんなら、「身近な地域への感染症専門病院の建設」という大原の政治決断を、今のコロナ下でどう思うだろうか。 〈加藤 好一〉伊東市桜木町49日本で唯一の日刊農業専門紙 日本農業新聞を購読しませんか?こんなところに「避病院」新

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