広報いとう+αー 21年7月号
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表紙の写真おたあジュリアの手紙(J.G.ルイズデメディナ著「遥かなる高麗」より)今年度伊東支店は親子による農業体験企画「あぐりフレンズ」を始めました。5月8日に伊東支店職員と新入職員が畑を整備。5月23日に畝づくり体験と落花生の種まき体験を行いました。「あぐりフレンズ」は1年を通じて農業の大切さやすばらしさを地域の皆さまにお伝えいたします。詳細はP4の特集2をご参照ください。詳しくは各支店または営農生活課(0557-45-6585)キリシタンジュリアは次第に遠くの島に移されていったおたあジュリア顕彰碑とジュリアの画像(神津島村役場提供)1612(慶長17)年、駿府の家康は怒っていた。彼に仕える一人のキリシタン女性に改宗を命じると、意外や意外、彼女はきっぱり拒絶したのである。  大御所としての面目は丸つぶれ。「おたあ(太田?)ジュリア」と呼ばれるこの女性は、伊豆大島への流罪が決まった。 彼女は朝鮮で生まれ、秀吉軍が侵攻した際は12歳。キリシタン大名・小西行長が連れ帰って育て信仰の道に誘う。行長の死後は、美貌と賢明さで家康が信頼する「貴婦人」の一人となっていた。 当時、大島への便船は網代湊から出ていた。ジュリアはキリストの苦難を思い、駕籠を断って山道を素足で歩く。 その時代の宣教師の報告によれば、足はすぐに血まみれとなり無理やり駕籠に戻されたという。 どうすれば彼女の篤い信仰心を崩せるか。大島→新島→戸数10軒ほどの神津島へと試練の島替えが続く。 だがジュリアは、「以前は“来てほしい■と書きましたが、今は気遣い無用です」と、神津島からの手紙に記すほど気丈である。 刑を許され島を出たのは、1616年の家康死後のことであった。 彼女はその時、遥かな旅を終えて再び網代に上陸したのだろうか。この漁村は海上交通の要地、田方地域の物産の集散地としても栄えていたが、今は信念に生きた一女性がその足跡を印した地となって、『日本切支丹宗門史』(パジェス著・クリセル神父校閲)に今もその名をとどめている。             〈加藤 好一〉50日本で唯一の日刊農業専門紙 日本農業新聞を購読しませんか?おたあジュリア・遥かな旅熱海市網代新

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